組織人しての答え、個人としての答え

ひさびさにまじめな話。加瀬亮がめずらしくテレビでナレーターをするというので、NHKETV特集を観る。これがまた、国営放送がこんなのよく作ったよなあというパンクな内容で、法律の正しさとは何か、人を裁くとは何か、死刑とは何か、法曹界という巨大な組織の、一元では括れない複雑さに大きな疑問を呈していて、いろいろと考えさせられる骨太なドキュメントだった。
死刑囚からの手紙をかせくんが朗読するのだけれど、死と罪と自分とに向き合っていく22歳の死刑囚を静かに淡々と語っていて、そのイノセントさが逆にずしりときて、とてもいい朗読。冤罪を問う映画で有名な俳優が死刑囚の手紙を朗読するというのはちょっと滑稽な話だけど(硫黄島もあったしねえ)、『休暇』のあとの西島秀俊さんもそうだけど、個人的にはこうゆうヘビーでマッチョな仕事もたまにはやってほしいなーと思うほど、印象的ないい朗読だった。ちょいちょいナナメ見するはずが、結果的にかなり真剣に観てしまって、こんな機会でもないと絶対考えないよなあ、と自分でもいろいろ思うこともあったので、以下、個人メモです。



裁判員制度が始まって、一般のひとが死刑執行可否にも関わるようになり、人を裁くとは何か、死刑を執行するとはどういうことなのかを再考すべき段階にきている。このドキュメンタリーは、リタイヤした元検事が、31歳のときに捜査検事として参加した22歳の窃盗殺人犯の死刑執行までのやりとりと、その後40年余りの苦悩が、個人的な考察メモという形で描かれる。

昭和40年代、中学卒業後に職を転々とし、窃盗目的で押し入った家の主婦を結果的に殺してしまった22歳の塗装工は、短い裁判の結果、一審で死刑という宣告を受ける。物静かな死刑囚は、裁判の過程の中で犯罪の重さと深さを認識し、自ら控訴することを拒否して、あるがままに与えられた罪を受け入れようとする。それは捜査検事として起訴した元検事、国選弁護人として事件に関わった弁護士との往復書簡を通して、次第に自分の罪だけでなく、死と向きあうこと、自分と向き合うことに変わっていくが、結果、最高裁での上申の甲斐なく死刑が宣告される。そのやりとりは、一審から死刑が確定するまでの圧倒的な考慮時間の短さへの疑問、昭和40年代という時代にあって組織として半ばシステマチックに罪が確定してしまうこと、若き犯罪者に更生や教育といった個人的配慮がなされないことへの疑問といった、法曹界と裁判制度そのものの問題をも浮き彫りにする。

病気でも事故でもなく、自分の犯した罪への報いとして自らの「死」の際を待ちながら毎日を過ごす彼の心境は計り知れない。自らの罪とその報いを冷静に見つめ、「僕への最後の裁きは、僕自身にさせてほしいのです」と与えられた刑をそのまま受け入れる境地に至った彼の、淡々とした考察の中には、罪の重さにイノセントな自省をすることはあっても、死を逃れたいとかもっと生きたいといったという思いは感じられない。死刑囚は、死というものに向き合い、自分自身を見つめ直し、内省を深めていく中で、最終的にはすごく哲学的な境地に行きついていて、その考えのめぐりの深さには言葉を失ってしまう。

他方、リタイヤした判事は40年あまり、法律家としての答えと、死刑囚と心を通わせたいち個人としての答えに悩み、死刑とは何かを考えていく。法曹界の特殊さや複雑さ、血の通ったひとりの人間としての苦悩と、公的な立場とのギャップに悩み、ときには性急に処罰を与えてしまったことを失敗したと認めたり、恩赦を乞おうともがいたりし、また省みて思い悩む。そこには判事という国家の組織人してのあるべき答えと、死刑囚と心を通わせた個人としての答えがあって、最終的には公の立場とに線をひくことで無理矢理おさめるしかない。組織人として職務を遂行すること、ましてや死を取り扱う職務にあって、このへんにも裁判員制度が成立することになったあらましと、その制度を成り立たせることのむずかしさみたいなものが表れていると思う。

あまり政治的な意見を述べるのは好きじゃないし、おこがましけれど、普段法律や死刑なんて全く関わりのない世界に生きているわたしたちは、死刑ということ、人を裁くということについて、少しでもコテ先じゃなく考える機会があることが重要なんだろう。結局はっきりした結論なんてものは出ないのだ。それでも、死刑囚にしても、元判事にしても、彼らは死刑というものに対しての考慮と内省を重ねた上の、一歩先の深さみたいなものがあって、とにかく単純ないい悪いとかじゃなくて、その先の、少し深いところで考える機会をもつことを忘れたり、恐れたりしないようにしないといけないな、と思った。